人の期待に応えられるように
こんにちは。お久しぶりです。程亮亮です。
今まさに那個にやられて気分も落ち込み気味で、こういうときは将来への不安や自己嫌悪が一気に押し寄せてきます。
台湾に行けなかったらどうしよう。
仕事が見つからなかったらどうしよう。
今日1日中国語を勉強していない私はダメなやつだ。
自分で言うのもおかしな話ですが、小学校の頃から、所謂「優等生」というレッテルを大人に貼られ続け、それが嬉しいと思えた幼い日々はすぐに終わり、いつしか「優等生」ラベルを大人から剥がされるのを恐れるような子供になっていました。
「この前の模試よくできてたね、次も期待してるよ」
「程さんなのにこの点数なんて、らしくないぞ」
「学級委員は程さんに」
「程さんは真面目なんだから、スカート短くしちゃだめ」
大人が勝手に期待してきたくせに、テストの点数が悪ければ「らしくない」。もちろん鼓舞のつもりなんでしょうが、私からしたら迷惑でしかありません。
間違いを犯すのが怖くて、常に完璧でなくてはいけないと思い込んできた。
それが変わったのは大学からです。
大学は先生との距離が「良い意味で」遠かった。全国から、おそらく「優等生」の部類に入る人が集まる大学では、誰も私に「優等生」を強要しませんでした。
個性も強みも人それぞれ。勉強したければすればいいし、したくなければしなければいい(卒業できるかは別問題ですが)。
ふと、私がここまで中国語が好きになれたのは、そんな自由な環境があったからこそなんじゃないかと思いました。
もちろん単位のためのテストはありますが、大学の特性上そのテストの点数を誰かに比較されることはありません。A+やらCやらのアルファベットに姿を変え、成績表に申し訳程度に印刷されていくだけです。
私は「中国語は絶対A+とる!」と決めてましたが、あくまでそれは個人の勝手な目標であり、決して「先生にいいように思われたい」とかそんな思いはありませんでした。
その気楽さゆえ、あくまでも自分の興味のために勉強し、あくまでも趣味の一環として続けられたのだと思います。
なんでこんなことを書いているかというと、今でもたまに「優等生」レッテルに苦しめられ、誰も見ていないのに常に見られているような錯覚に陥って「ミスをしてはいけない」と自分に課して首を絞めることがあるからです。
好きなものに苦しめられるとは本末転倒です。
もっと気楽に、そして自信を持って、中国語を続けていきたいものです。
今回は以上です。ここまで読んでいただきありがとうございました。